超自然派ブルゴーニュワイン
Domaine des Equipages
ドメーヌ・ デ・ ゼキパージュ
Erik Martin
エリック ・ マルタン

ヴォギュエ のミュジニー ”レ・ザムルーズ”を耕耘中

   リュット・レゾネ,ビオロジック,ビオディナミーなど,今やワインの葡萄栽培は完全に農薬と決別したと言える。そんな中,2000年以降,とりわけコー ト・ドールの超一流ドメーヌの多くが急速に導入に踏み切ったことがある。馬による耕耘だ。ロマネ・コンティの畑が馬で耕耘されていることは,しばしばメ ディアで紹介されているが,実は今や,ドメーヌ・ルロワ,コント・フォン,ドゥニ・モルテ,ジョルジュ・ド・ヴォギュエ,メオ・カミュゼ,ブリュノ・ク レール,ジャック・プリウール,ブリュノ・クラヴリエ,シルヴァン・カティアールといったドメーヌの畑は全て馬で耕耘されているのである。そして驚くべき ことに,これら全てのドメーヌの畑の馬による耕耘を一手に請負っている天才カリスマ耕耘職人がいる。

 1999年,ジャン=ルイ・シャーヴの畑から仕事を始め,2000年にはマルセル・ラピエールとギィ・ブルトンの畑の耕耘を行ない,その後,マダム・ル ロワに請われてコート・ドールを本拠にすることになったERIK MARTINエリック・マルタンだ。

 シャンベルタン,ミュジニー,シャンボール・ミュジニー“レ・ザムルーズ”,リシュブール,エシェゾー,ヴォーヌ・ロマネ“クロ・パラントゥー”,コル トン・シャルルマーニュ,モンラッシェといったコート・ドール最高峰の畑で馬による耕耘を行ない,契約している超一流ドメ−ヌや友人であるクロード・デュ ガやフレデリック・コサールなどからも様々なことを吸収したエリックは,2004年,隣人であり,畑の耕耘も請負っているドメーヌ・シュヴロが本拠を置く マランジュに,賃貸契約で畑を借り,念願のワイン造りに着手し始めた。僅か0.6haの畑から造られるワインは,年産3,000本にも満たないが,そのワ インを味わったドミニック・ラフォン,クロード・デュガ,フィリップ・シャルロパン,ヴェロニック・ドルーアンなどが口を揃えて感銘を受けたと賞賛。最新 の『ブルゴーニュ・オージョルデュイ』誌にも初登場し,高く評価されている。

ドメーヌの名前は、フランス語で「乗組員全 員」という意味で、馬と人間の関係を強調すると同時に、
Equi = 馬  、  pages 歴史 で「馬の歴史」も表しています。

裏ラベルには愛馬 IRIS
MARANGRS COTE DE BEAUNE  2004
マランジェ コート ド ボーヌ



予約にて完売しました


Cremant de Bourgogne Brut
クレマン ド ブルゴーニュ ブリュット

赤のマランジュと同様に 、除草剤や化学肥料を一切使用しない VIGNOBLE ECOLOGIQUE 「生態環境保全畑」の哲学に基づいて栽培されたピノ・ノワール100%を使用したブラン・ド・ノワール。
ヴィンテージ表示はありませんが、全量2005年収穫の葡萄を使用。


¥3,360


エリック・マルタンの解説によるフランスにおける馬と耕耘の歴史と現状

   現在我々が馬で耕耘をしている葡萄樹の根は、ずっと今のような状態であったわけではありません。そもそもフランスで馬による牽引が葡萄畑に導入されたの は、フィロキセラの蔓延によって葡萄樹が引く抜かれた後、当時の牽引道具であった馬の大きさに基づいて畝幅が1メートルの間隔に決められ、畝1列ごとに葡 萄樹が植樹し直された後のことです。例えば、プルゴーニュ以外の地方で、馬の代わりに牛を牽引に使っていたボルドーなどでは、畝の幅はより広い1.33 メートルとなっていることに気づかれる方も多いでしょう。

   プレ・フィロキセラの葡萄畑では、取り木や接ぎ木のために、現在の1ha当たり1万本に対し、2〜3万本の葡萄樹が無秩序にびっしり植えられていたため、 畑の中を真っ直ぐに行き来することはできませんでした。このような理由から19世紀末まで、葡萄畑はつるはしで耕耘されていました。一方、馬は、その敏捷 性から長い間、運搬や軍隊に用いられていました。したがって、農業においては、馬よりも牛が用いられることが多かったのです。19世紀に遺伝子選抜が専門 化されると、20世紀の馬はそれ以前よりははるかに重くなりました。このため、二度の世界大戦の間の時期、田舎に行くと、4頭立ての馬で耕耘や種蒔き、収 穫、あるいは荷車を引く農民が数多く見られました。この間の約30年は、農業の近代化という観点からは、馬による耕耘のノウハウの実質的な進歩はありませ んでした。

   ところが、1970年代に入り、除草剤が広く使われ始めると、耕耘馬は1990年に至るまで減少の一途をたどっていきました。こうして、世界の近代化と工 業化は、フランスの田舎から耕耘馬を殆ど消減させてしまったのです。
   今日の馬耕耘への回帰は、意味のないものではありません。1990年代以降、除草剤の使用は減少し、周辺への影響からもプルゴーニュのような小さな区画の 葡萄畑では、機械による耕耘は困難なものとなっています。人々は、馬による耕耘が何物にも代え難い覧であることに気づき、葡萄への効果も直ぐに表れ始めた のです。
固まった土の耕耘、土寄せ、鋤入れ、平らにならす...といった作業は、葡萄樹の地表部分の発達を決定づける根がうまく張るために好ましい土壊構造を維持 してくれます。特に畑が細分化され、様々な具なる状況に置かれているプルゴーニュの葡萄畑においては、土仕事を軽んじてはいけないことが良く分かります。

   それぞれの区画は、ケース・パイ・ケースで扱わなければならないことは馬の耕作人に課せられた必要条件です。あらゆる区画において、今までの農法、心土、 根の張り具合、排水、周囲の状況、下草の状態、葡萄樹の発育段階、他の農作業との調整といったことが考慮にしなけれぱならない要因です。

   現代葡萄栽培が勝ち取らなけれぱならない重要なことは、土が押し固められることをどのように抑制するかということです。固まってしまった土の影響は、耕耘 の仕事の費用の増加や葡萄樹の衰弱、病害の蔓延や葡萄樹の損傷、死滅、収量や熟成の減退、表土の流出の助長…といった形で数年後に表れます。馬によって土 を耕耘することは、これらの問題を理解し、抑制することができるのです。しかし、一度固まってしまった土を元に戻すには、大抵の場合長い時間と費用が掛か ります。
ですから、もし、葡萄の根の働きにとって好ましい土壊の好気性構造と排水構造を維持したいのであれば、土を再び耕耘することが大切なのです。
                                    エリック・マルタン



英国の『ワイン&スピリッツ』誌のWEB 版に掲載記事より

4本足の友達

「馬と葡萄樹には白然な接点がある。この2つの生 物は共に関与し合つているのだ。」

              オペール・ド・ヴィレーヌ  ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ

 

  ボーヌを見下ろせる斜面に到着すると、前を走っていたエリック・マルタンが車を止めて外に 出るよう伝えてきた。そこに見た畑は耕作されたばかりの美しく清らかなものであった。

  マルタンは良いものを見せてやると、屈んで畑の土を手でのけた。その下には違う層があり、 石のように硬いものだった。「これはトラクターの仕業だ。」とマルタン。

  マルタンには使命がある。彼は葡萄栽培家にトラックよりも馬の方が畑にとって良いというこ とを理解して欲しいのだ。「トラクターは土を押しつぶし、雨水が根まで届かないようにしてしまう。馬はより土に優しい。」

  現在36歳であるマルタンが馬の力 の不思議を発見 したのは事故 のようなものだった。1990年代初め、彼はスペインのピレネーで大工として働いていた。その時、大工達が耕作だけでなく、急斜面での作業に馬を活用して いたのを見ていた。フランスに戻った彼は園芸の学校に通うことになり、授業の一環だった研究が教授も驚く結果を生んだ。彼は巨大な庭を耕す馬を購入した。 それは教授を驚かせただけでなく、ミシェル・シャプティエの目にも留まり、コート・ロティの畑の耕作に採用されるまでとなった。そこで始めてマルタンはト ラクターがどれだけ畑に悪影響を及ぼすのか知ることとなった。タイヤの跡は永久的に土に残るのではないかと思われた。土壊はひどく圧縮されていて雨はただ 表面を流れていくだけで、既に侵食の問題はかなり深刻であった。

  マルタンはシャプティエでの仕事に満足していたが、友人からの勧めもありプルゴーニュに移 り、この仕事 を一生の職とすることに決めた。しかし、試練が待ち構えていた。プルゴーニュの栽培家は土の健康や有機農法に興味を示したが、馬の起用については断られ た。マルタンは生活にも困るほど事業が低迷し、辞めることも考えていたが、最後のチャンスとしてあるところに電話をかけてみた。まずはルロワのラルー・ ビーズ=ルロワと話し、彼女の哲学に訴え、仕事を得ることができた。彼の仕事の結果は驚くぺきもので、現在、ルロ ワの全てのグラン・クリュ、ブルミエ・クリュの畑の耕作に馬が使われている。馬による耕作についての彼女の意見は次のよう。「最良のワインを造るために やっていること。以前から、トラクターでの長年の耕作は、土を圧縮して減らしてしまう、とヴィンヤード・マネージャーに言われていた。馬の影響はそれに比 ぺるとかなり少ない。馬は葡萄樹が好きなようだし、葡萄樹も馬を好んでいるようだ。」

ルロワの話を聞きつけた生産者がマルタンに連絡を取ってくるようになり、事業も活気付い た。

マルタンは6頭の馬を購入し、古い農家を訪ね回り 必要な器具を調達、アシスタントも雇った。

  馬での耕耘は人気を得て、6社ほど がマルタンのよ うな事業を 行っており、プルゴーニュのドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの オペール・ド・ヴィレーヌ、ドメーヌ・メオ・カミュゼのジャ ン=ニコラ・メオ、ジョセ フ・ドルーアンのフィリップ・ドルーアン、ドメーヌ・コン ト・ラフオンのドミニック・ラフォン、シャトー・ド・ポマー ルのジャン=ルイ・ラブランシュなど と契約をしている。

  マルタンのクライアントであるシャンソン・ペール・エ・フィスの畑を管理するジャン= リュック・パランによると、馬を使い始めてから「畝を歩くとまるでカーペットの上ようにフカフカだ。」違いはすぐにわかった。「樹が生き返り、より健康に 見える。」「樹の周りには生き物が集まり、土には有機物が増え、白然のバランスがよくなった。しかも、畑にはまた野生の動物が現れるようになった。」とい うことだ。

    しかし良いことばかりではない。パランが言うように、一度馬を入れてしまうと二度とトラク ターは入れないのだ。それは、馬によるそれまでの仕事が全て無駄になってしまうからだ。トラクターが使われた場合、土を戻すのに3年もかかる。マルタンがいらだつのは、その警告を無視する生産者がいることだ。「彼らは忘れてしまうのか楽をしたいのか分 からないが、そうなると、もう一緒に仕事はできないと伝えるしかない。」とマルタン。

  馬での耕作は簡単ではない。たった1 ヘクタールを 耕すのに18時間もかかる。しかも1年間に7回も同じところを耕さなければならない。経費もかかる。生産者は年間、1ヘクタールにつき少なくとも 5,000ユー口支払うことになる。しかし、長い目で見るとその経費は無駄にはならない。

  マルタンによると樹の寿命が2倍に 延びるそうだ。 今、30〜40年生きるとされる樹は.馬での耕作により100年以上も実をつけ続けるのだ。

  そのロマンティックなイメージにも係わらず、歴史学者のクロード・シャピュイは、馬による 耕耘がどれほど骨の折れるものか知られていないと言う。彼は父親がアロース・コルトンで耕作していた時のことを良く覚えおり、16キロから20キロも毎日歩いたことや馬のにおいが体に染み付いたこと、家族よりも馬との時間の方が長かったことなどを聞 かされていた。

  馬と人間との関わりについては、シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ララン ドのメイ・エ リアンヌ・ド・ランクサン女史も覚えている。第二次世界大戦時、ドイツ人に馬を没収された。中には森に馬を隠した生産者や、馬のひづめに錘を付けて足が不 白由に見せたりもしたが、ドイツ人は騙されなかった。戦争を生き延びた馬も沢山いたが、ペルシュロンやオクソワ種のような大きな仕事馬はいなくなってし まった。1950年代には畑にトラクターが入るようになり、仕事馬は消えた。

  今になってようやく、特別な血統の馬の繁殖が始まった。クロード・シャピュイは「ブルゴー ニュの土壌は 機械の導入と科学薬品により死にかけている。」「馬によってまた土が息を吹き返すかもしれない。」と言う。彼は、馬が完全にトラクターに入れ替わることは ないが、特に小さな畑や急斜面でトラクターが入れない場所では大切な役割を担うと感じている。

  マルタンが連れてきてくれたポーヌを見下ろす斜面で、我々は耕作の結果を見ることができ た。

  最近トラクターと馬によって耕された別々の畑を見比ぺてみた。馬で耕された畑を見るまでは トラクターのものも普通に見えた。遠くからでも馬で耕された畑の樹は健康に育っていることが分かった。土には金色に輝くほどのリッチさが見え、樹は活力に 漲っていた。

  ある意味、驚くことはない。「馬と葡萄樹には白然な接点がある。」とドメーヌ・ド・ラ・ロ マネ・コンティの一部の畑に馬を起用するオペール・ド・ヴィレーヌは言う。「この2つの生物は共に関与し合ってい るのだ。」

  少し民俗的で回りくどい感じがするが、それが事実である。研究が証明するように、動物は人 間が思うより も環境に敏感なのだ。馬は葡萄樹に対して第六感があるようだ。鍬が石や草の塊にぶつかっても耕耘を続けるが、葡萄樹の根に当るとすぐに止めて、人間にそれ を知らせるそうだ。

  しかし馬は本当に違いを生むのであろうか。「数年後、何か証明できるかもしれない」フィ リップ・ドルー アン。マルタンも最終的に判断するまでには時間がかかると感じている。「馬は畑の万能薬ではないが、出来る範囲で小さな貢献をしている。」と。間違いのな いことは、土は良くなり樹はより健康であるということである。

  2004年11月3日

ドナルド・クラッドストラップ




DRCと密接な関係を持つJean-Louis Raillardジャン=ルイ・ライヤール氏による
 DRCへの耕耘馬再導入工ピソード

   DRCの畑に牽引馬が再び導入されたエピソードについてお話しましょう。1990年代の後半、DRCの共同所有者であるオーベル・ド・ヴィレーヌが私にこ ういったのです。

「おい、ジャン=ルイ、わしはロマネ・コンティの畑が馬で耕耘されるのを見るまでは引退はせんぞ。」

   そこで私は、ボーヌの農業専門教育センター(*ジャン=ルイ・ライヤールが教授をしている学校)と共同で、百余りのドメーヌを招き、耕耘馬のデモンスト レーションを畑で行うことを企画したのです。デモンストレーションの当日、ヴォーヌ・ロマネ“ボー・モン”の畑の土は濡れていて、見学者は容易に近づけま せんでした。私はすぐにオーベル・ド・ヴィレーヌの下に駆けつけ、そのことを伝えると、彼はロマネ・コンティの畑に行って良いと言ってくれたのです。

   2000年のその日、50人余りの造り手が見学に来ました。馬のデモンストレーションは、私の学校の同僚で、オーソワ牽引馬の飼育家であるアベル・ビズ アールと、生涯DRCで働き、1953年にDRCで働き始めた時、耕耘の仕事を担当し、近代的なトラクターに切り替わる前のDRC最後の馬で作業を行う機 会に恵まれた私の父とで行われました。それは、72歳を迎えた父への私からの素晴らしい贈り物となりました。

   この馬による牽引への回帰の有用性は、土が押し固められるのを少なくすることと有機農法への移行の継続性です。以来、有機農法もしくはパイオダイナミック 農法で葡萄栽培をしているドメーヌの多くが、畑に馬を入れることを再び学び始めています。ボーヌの農業専門教育センターでは、若い造り手やその他の人達 に、馬による耕耘の教育を行っていますが、その名声は今や国境を越えています。なぜなら、教授であるアベル・ビズアールは、スペインやドイツにまで行って 指導を行っているからです。

   DRCは、ロマネ・コンティ、ラ・ターシュ、リッシュブールなどの畑を馬で耕耘するために、専属の御者ドゥニ氏を馬と共に雇っています。また、それらの馬 のための特別な厩舎の改修も計画されています。

   他のプルゴーニュの幾つかのドメーヌも、畑の耕耘のために、牽引馬の御者を雇っています。その他のドメーヌでは、馬による耕耘請負業者と契約して作業を 行っています。こうして、馬による耕耘を行なう幾つかの会社が設立されたのです。

   馬による耕耘は、土が踏み固められることを少なくしてくれますが、気をつけなけれぱならないのは、ボー・モンのような傾斜のある区画に関しては、人為的に 耕耘をすると、夏に激しいタ立があった場合など、侵食や地すぺりが起きて土が斜面下部まで流されてしまう危険性があることです。したがって、傾斜のある区 画、表土流出の危険性があり耕耘ができない畑に関しては、下草を生やして土を根とともに自然に換気させて土壌を安定させ、葡萄樹やそれに由来するワインに とって有益な生物学的サイクルとバランスを形成してやることが大切なのです。

                                 ジャン=ルイ・ライヤール







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